ついにリバーガイドに!!

2019年7月31日

回想記です♪(⇒過去記事はこちらです)

前回の記事で、私がようやくオーストラリアのケアンズで「リバーガイド(ラフティングのガイド)」になったことを書きました♪

その後、現地のラフティング会社であるRnR社にて、正式にガイドとして雇ってもらえることになり、その後ビジネスビザ(労働ビザ)のスポンサーにもなってもらいました。

そして、晴れて「リバーガイド」としてオーストラリアで生活していけることになったのです。

オーストラリアに渡ったのが1996年の7月下旬。


(渡豪前に地元の宇都宮市で両親と撮った一枚。足元には荷物のバッグがありますね♪)

ビジネスビザを申請したのが1997年7月でした。ほぼ1年かかったことになります。

この時の1年を振り返ってみると、ラフティング会社を最初に訪問してトレーニングの申し出を断られたのが1996年の8月頭で、

なんとかトレーニングをさせてもらえるようになったのが1997年の2月下旬。

この約半年間が一番しんどかったように思います。

リバーガイドを目指しオーストラリアに来たにも関わらず、トレーニングさえ出来ない「もどかしさ」というものがありました。

「このまま、トレーニングも出来ないまま日本には帰れない!」

という強い思いが常に私の頭の中にはありました。

そして、オーストラリアでは本当に「ゼロ」の状態からのスタートでした。

ケアンズ空港に一人降り立った時点で、全く知らない外国の地。住む処も決まっていない。知り合いは誰もいない。右も左も分からない・・。

持っていたのは大きなザックと

「ここでリバーガイドになる」という想いだけでした。

そこから新しい人間関係。住む処。仕事・・・などなど全てをゼロから構築するのには結構エネルギーを要したように記憶しています。

そして、ラフティング会社でトレーニング生として受け入れてもらえるまでが大変だったと感じていたので、実際にトレーニングを始めてからの日々は特に大変だとか、苦しいなどと感じたことはありませんでした(笑)

トレーニング中は常に「もう少しだ! あとは上手くなってガイドになるだけだ!」と思っていたので♪

その後、私は2009年の6月まで、延べ12年にわたってRnR社で働くこととなりました。
(途中、別の場所で働いたこともありましたが)

回想記(オーストラリア編)は今回をもって終了です♪

ここまで読んでいただいたみなさん。どうも有難うございました!

今後は、その後のガイド時代のことや、ラフティング競技を始めてオーストラリア代表となり、そして日本代表となって世界大会優勝するまでのことを新たな「回想記シリーズ」として書いていきたいと考えています。

予定としては回想記(ガイド編)、回想記(世界一への道程)といった感じでしょうか??

暇なときにでもまた読んで頂けると嬉しいです♪

$ラフティング道

新米リバーガイドとして働き始めた当時の写真です♪(1997年)

<→回想記(リバーガイド編)に続きます>