更に待つ・・

2019年7月25日

オーストラリア回想記です(⇒過去記事はこちらです♪)

1996年12月。ケアンズに来てもうじき5ヶ月が過ぎてしまうという頃でした。

私は再度ケアンズ現地のラフティング会社に連絡を取ることにしました。

ケアンズに来た7月当初に1度訪れていた2社に電話をしたのです。
最初はRaging Thunder社に電話をし、その次にRNR社に電話することにしました。

最初にRT社のほうに電話をしたのは、7月に会社を訪れた際の印象で

「なんとなくRnR社のほうが脈がありそうだな・・」

と感じていたので、そっちのほうを後回しにしておいたのです。

気分的な問題ですね

RT社のほうはやはり全く可能性は無さそうでした。

そして、RnR社のほうは以前話したマネージャーのポールさんと再び話をしました。すると、

やはり「いまのところ新しい日本人ガイドを採用する予定はないです」と言われてしまったのです。

しかし、日本人のガイドを新たに取る予定はないが、一般の(英語を普通に話せる)ガイド向けのトレーニングコースが翌年の4月に設けられるとの情報を教えてくれたのです!!

私は日本人ガイド枠ではなくても構わないと思い

「何もせずに日本に帰るわけにはいかないので、とりあえずトレーニングコースだけでも受けさせて下さい」

とポールさんにお願いしました。

それまでにもっと英語を勉強しておきますとも言っておきました。

私としては、オーストラリアでなんとしてもラフティングのガイドになりたかったため、とりあえずトレーニングを受けないことには、何も始まらないと考えていたのです。


(このようなラフティングのガイドになるため!!!)

ポールさんは私の話をしっかりと聞いてくれたので、私は調子に乗って、それから4日間ほど、毎日ポールさんに電話をしました。

ポールさんはその度「またあなたですか・・・」となかば呆れていましたね(笑)

しかし、そのたびに色々情報を聞き出し、オーストラリア以外の国でもラフティングをやっていることなども教えてもらったのです。

そして最後には、4月のトレーニングコースはとりあえず参加させてもらえること。

そして、その後、もし会社に残れないようであれば、トレーニングコース終了の書類と推薦状のようなものも書いてくれると約束してくれたのです。

それを持って他の国でラフティングのガイドに挑戦も可能であると考えました。

ま、そんなことを私に言ったことなどポールさん本人は今は覚えていないと思いますが(笑)

とにかくこの出来事は嬉しかったですね~。
単身渡豪して来て以来、全く進まなかった「ラフティングガイドへの道」が、ここに来て、少しだけ開けてきたように感じました♪

そんな感じで、最低限の可能性を残せた私は、少しだけ安心して年を越すことを出来たのです。

いまだにあの頃を振り替えると、よくあんなにしつこく毎日電話出来たものだと思います。

けっこう必死でした!!

そして、4月までは今まで通り自分でトレーニングを継続しつつ、また他の国に行かなければならないケースを考え、お金をそれ以上減らさないように仕事をすることにしました。

そんな状況が変わったのは意外にも早く1997年2月でした。

$ラフティング道
(2月のケアンズは夏真っ盛りです♪ 雨も多いですが・・)

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